風は明日の方角から lmaginator 來田 淳blog

カテゴリ: アルバムから

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龍谷大学二回生の時に「探検部」という同好会を作った僕は、部のことは真面目にやっていたが卒論が通らなくてなかなか卒業できず、六回生になって高校時代の同級生であった妻と結婚した後も、「卒業したい」と思いながらどうしても勉学に身が入らず、遂に最終ラウンドの八回生を迎えてしまった。もともと教員免許を取得するためだけに入った大学で、教育実習を経て、「教員の仕事は自分に不向きだ」と気付いた後は、勉学に向き合う動機そのものを喪失していた。そうなるともう無理。


そんなある日、報道番組で大谷大学探検部が筏で琵琶湖を縦断したという話が流れ、面白い!次は丸太でやれば話題になる、と思い、大谷大の探検部を訪ねて彼らの体験談を聞き、また僕らのアイデアを話した。琵琶湖の全長は約七十キロ。その後繰り返し仲間とプランを練り、現地を見るためバイクでつづら尾崎の展望台から琵琶湖を眺めたが、う〜ん
と唸るほど実際に目にする琵琶湖は大きかった。

FA27D76B-9950-444C-A95F-C3856B08A541 それでどうしたものかと家で考え込んでいると、妻が「三人で交代しながら行ったらいいやん」と名案を出してくれたのであっさりそうすることにした。それまでは三人で各自一本ずつの丸太に乗って泳ぐつもりでいたが、よく考えてみるとそれでは「丸太三本」になり、苦労のわりにニュースの見出しとしてインパクトを欠く。「龍大探検部員丸太一本で琵琶湖縦断」これがいい!で、

なぜそういうことに拘っていたかというと、探検部は結成以来六年になるものの未認定の同好会で部室もなく(一度見晴らしの良い学舎の屋上に小屋を建てたが撤去された)、何かニュースになるようなことをすれば認定同好会に格上げされて、大谷大の探検部のように汚い部室ももらえるはずだと、それを期待してのことだった。例え自分は卒論が通らず大学を横に出る(中退)ことになったとしても、龍大に来たことの足跡は残せると思ったわけだ。

そうこうしているうちに妻が妊娠したことがわかった。こうしてはいられない。直ちに中央市場と氷屋のバイトを掛け持ちして稼ぎまくることにしたが、市場は朝が早いので睡眠不足になりがちで、氷屋は氷のトラックが来るまでの待ち時間に、納入先の店の入り口の階段で何度か居眠りしてすぐにクビになった。中央市場の職場は鶏の屠体を包丁や手で捌くのが最初は嫌だったが、そのうちに慣れ、また男らしい職場で肌に合っていて、しんどいながらも楽しく続けられた。

C18E51E2-AAA8-47C5-BC5D-1E25E65E7765 そして僕の提案に加わった探検部の仲間が二人(六人いたが参加できたのは半分)と、ヨット同好会の二人が調達してくれた伴走のヨットに材木屋で買った杉の丸太を載せ、五人で浜大津の港を出港し、数時間後に琵琶湖最北端の塩津浜に着いた。そこで僕らを待ってくれていたのは、毎日放送
MBSナウのカメラマン一名と讀賣・京都新聞記者二名だった。

26B5CF0D-639F-4B53-B65F-01DEC16466B9 季節は八月、いざ水に入ったもののぶっつけ本番で練習もしておらず、最初は一回生の淀瀬君が漕ぎ出したのだが、水掻き用に手に持っていた卓球のラケットは使い物にならず、丸太も跨って乗ると体が立って前に進まない。結局丸太を腹の下に抱き込んで足ヒレと手で水を掻きながら進むことになった。初日の一泊は竹生島で、夕方宿の食堂で
TVをつけてもらい自分たちの活躍ぶりを笑いながら鑑賞した。ニュースキャスターは後に大阪市長になる平松邦夫さんだった。

4C67E01E-F67C-40E6-816B-89FCF9538C43 遊泳中、事前に届を出していた水上警察は毎日僕らの無事を確かめにやってきてくれた。ああいういかめしい船に見守られていると
VIPにでもなった気分だ。僕らは、海パンTシャツの上にライフジャケットを着込んでいたがこれはルールで、泳げない僕は喜んで着用していた。我が部は皆ヨット初体験であり、船上で船酔いしながら真夏の太陽を浴びているよりも泳いでいる方が楽なので、皆代わってくれと言わんばかりに水に入った。竹生島から三日かけて大津港に着いたのだが、最後のトリは八回生の僕がやらせてもらった。

後日中央市場で弁当屋の若旦那がその話を誰かとしていて、あっそれ僕ですと言うと、「おまえか!あんなものは冒険と違う!暇さえあったら誰でもできることや」と怒られた。

琵琶湖から1~2か月経って、当時川釣りに凝っていた僕は、秋の天気の悪い日に、左京区の高野川へいつものように「龍大探検部」と書いたドカヘルを被ってバイクで出かけたのだが、いつも釣る堰の下で、その日は雨がパラパラ降って、また上流もそこそこ降っていそうなので魚も釣れないことだし竿を仕舞って帰ろうとして、顔をあげ呆然とした。それまで堰の真ん中半分ぐらいの幅で水が流れ落ちていたのが、今や川の端から端に至り、音もザーからドーに変わり、向こう岸と繋がっていた釣り場が中洲になって孤立している。一瞬寒気がした。川岸に爺さんの姿が見えたので、「ロープを投げて欲しい」とジャスチャー(叫んでも聴こえない)し、それを持ってきてくれたもののなかなか投げてくれない。どうしたのかとヤキモキしていたら、消防署のレスキュー隊が到着した。ライトがこちらを照らし出し、TVカメラが回っている。

やばい、非常にやばい。
レスキュー隊の指示通り、投げてもらったロープを胴に巻き体重を重くして渡るために胸に石を抱いて増水した川に入ったのだが、2、3歩歩いたところで水中の苔に足を滑らせて転倒、一瞬茶色の濁流にのまれて上も下も分からなくなった状態で、対岸の堤防に引き揚げられた。

「琵琶湖縦断の龍大探検部員・高野川で救助」云々。マスコミは都合のいいことばかりは報じてくれない。TVで顔や氏名を晒された挙句に翌日の京都新聞に載った記事だが、琵琶湖丸太縦断での認定同好会昇格・部室獲得の夢もこれで露と消えた。自分で作って自分で潰した探検部。認定倶楽部昇格を期待してくれていた仲間には誠に申し訳ないことをしてしまったと思い出す度に頭を掻く。

それからまた日常の日々に戻り、卒論を書き口頭試問に臨んだわけだが、これまで4回の試問で渋い顔をしていた教授がその日に限ってニコニコしている。「君か!テレビに出ていたのは」とその“偉業”を讃えられ45分間の口頭試問の約3分の2が、琵琶湖縦断と遭難救助の話に費やされた。卒論が通ったのは言うまでもない。別に念願の卒業をするために企んだわけではないが、結果的にこの珍事が卒業に結びついた。 

よかったよかった。八年かかったが卒業した時には結婚して子供もできて中央市場という就職先も決まって、貧しいながらもどうにかこうにか生活の基盤は整っていた。
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(増水時の高野川の現場と濁流。孤立したのは右上の草叢の辺り)


アルバムから。…………………………………………………………… 8576D8F9-EA9D-4FCD-A920-47D48D24797B A4459108-748E-41F8-9C8C-4DEB839DB3C2 4ACC08B3-2CD4-4FE5-846C-608C17A16C83 A7DE5B90-1CE9-4471-A66B-60D2DF0C9413 0FDD97B7-933E-4B38-96BD-6081BA5C46DE B20311C0-5EE3-4226-B7AF-C70DC61ADCB1 6F3039F2-8ED4-4B38-B95F-51B82D4D2484 90573BA8-7F42-42D3-8E8A-F15581C9615D F7C22654-1C72-4E0B-A8F8-D521479521AE






































































































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これは「月刊京都」今年の4月号に掲載したものですが、掲載に当たり文字数に相当制限があったため改めて書き直しました。(wordの文字データを貼り付けたため他の記事とは体裁が変わっています) 

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はこうして蒲焼きにして食べましたが実に美味なものですうそです放しました。

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1969年、和歌山県立向陽高校での生徒会長時代の僕と、副会長の宮本さん。彼女は僕のイライラの素で、度胸と頑固さと強情さにかけては対対で、毎日のようにバトルを繰り広げていた。その宮本さんとの充実した一年間の、最初で最後の写真。

生徒会の最後のお知らせを刷っている狭い謄写版室で、互いに背中を向けて作業をしながら、もう今日しかないと思い、これまで彼女によく怒鳴ったり辛く当たってきたことを詫びたとき、 「いえいえこちらこそ。至りませんで」と言った宮本さんのあの言葉にはジンときた。抱きしめたい気持ちになったけど、それは怖くて出来なかった。
彼女は全校生徒1,500人を前に堂々と演説して選ばれた人 。勝手に写真上げちゃうけど怒りはしないだろう。

制服廃止運動やその他もろもろで反感を買っていた僕は、この写真の数日前に現状維持派の三度目の集団リンチで奥歯が欠け左顔面に傷が残っていた。これが周囲の動きでことが明るみに出て大問題になり、緊急職員会議の翌日、校長が全校集会を開いて、校内暴力の一掃を怒りを込めて強い言葉で訴えた。この校長の大演説のお陰で、体育系などの教員の暴力も完全に一掃された。僕の奥歯一本は安いものだ。リンチに加わった彼等と僕とのその後の関係については、卒業間際の校誌で僕が書いた“教員の権力の否定と、彼等の暴力の純粋さへの賛辞”によって思いがけず彼等と仲が良くなり、卒業式の日には一緒に写真を撮った。立場は反対でも、お互いに向陽高校を良くするために頑張ってきたんだから。
それから40年後の同窓会(写真下)にもみんな元気で来ていて、同じテーブルで酒を酌み交わした。

人間というのは喧嘩をするほど仲が良くなるものだ。
アナログの時代は良かったなあ。



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ファッションセンスは昔から無い。
子供の頃から、いつもその辺にある物を着ている。

仕事着は今も一年の半分以上は黒いTシャツと黒いズボンで 、冬場はその上に黒いセーター。靴下はホームセンターで買った黒い軍足。これは謂わば僕のひとり制服のようなものだが、同じような物を着ることで毎朝何を着るか考えなくて良い分、相当時間が節約できる。スティーブ・ジョブズも同じパターンだったらしい。

60年代の終わり、高校二年から三年にかけて生徒会長になって制服廃止運動をやったが、考えてみると毎朝の時間節約という点では制服は合理的だった。然し、学びの場で制服はいかん。あれは知らぬ間に奴隷根性を培う。ああいう日常の“普通のこと”に鈍感になってはいかんのだ。

下の写真は、制服廃止運動をやりながら制服を着て、生意気な涼しい顔で先頭に立って歩いている自分。
人生はいい加減さと矛盾に満ちている。

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近所のゴルフ場。ただ10年前の今日の写真なので、たぶん今の住宅地へ良さそうな物件を物色に来ていたついでに立ち寄ったのだろう、僕は自然を壊すゴルフはしない。
当時あちこちのゴルフ場が経営不振で閉鎖になっていたので、ここもそうなってうちの会社が儲かって、ここを買って住むのも良いなあ…、クラブハウスをちょっとリノベーションするだけで良いし、客部屋もたくさん作れる、厨房とレストランはそのままで良い…、などと不謹慎なことを考えて、ひとりニタニタしていたと思う。
ゴルフ場付きの家なら、折角なのでゴルフぐらいするだろう。

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何の脈絡もないけれど、親父が撮った親友の写真。
温かい人物だった。

ショーン・コネリーのジェームズ・ボンドが登場した中学生時代、漫画家志望友達だった川崎君の顔に墨でメイクして記念写真を撮った。 
彼、どうしているかなあ。

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だいぶ違うなあ…

お互いに、今とだいぶ違う。
着ている服を見ると、ひょっとしたら初めてのデートの時かも知れない。

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50年前に僕が描いたスケッチ。
堤防に手をついているところ。 

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ちょっと前の写真ですが。
 

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